知られざる台湾最南端・バシー海峡の悲劇—戦没者を「二度」死なせないために—
バシー海峡戦没者慰霊祭
11月20日に第8回目のバシー海峡戦没者慰霊祭が斎行され、私も参列しました。
輸送船の墓場・バシー海峡と潮音寺
バシー海峡は、台湾とフィリピンの間にある海峡のことで、戦時中日本の輸送船が米軍の潜水艦からの攻撃に遭い沈められたことから「輸送船の墓場」とも言われていました。ここで亡くなった方は10万人以上、20万人以上といわれているそうですが、実際には何人なのか未だわかっていないそうです。そして今も多くの犠牲者がこのバシー海峡で永眠しています。
当時バシー海峡を走行していた「玉津丸」はアメリカ艦の攻撃を受け、沈没してしまいます。玉津丸に乗っていた中嶋さんはバシー海峡で12日間漂流し、助けられましたが、中嶋さんがこの海峡で戦死した戦友たちの慰霊をしたいと思い、戦後彼らのために建てたお寺が「潮音寺」です。潮音寺の御堂からはバシー海峡が見えます。
中嶋さんは2013年に92歳で亡くなってしまいましたが、今は台湾人の鍾さんが中嶋さんの遺志を受け継いで潮音寺を守ってくださっています。鍾さんは「私たちが潮音寺を守っていくから、日本の皆さんは心配しないで」とおっしゃっていました。
また、地元の人たちが私たち日本人が潮音寺に行きやすいように道を整備してくださったり、中元節(日本のお盆)には現世に舞い戻ってきた霊魂の供養をして下さったりしています。
今も潮音寺が綺麗に大切に維持管理されているのは鍾さんをはじめ多くの台湾人のおかげです。
今年の慰霊祭の様子
今年は日本から来た人や台湾人、在台邦人合わせて63人が参列し、潮音寺で慰霊祭が斎行されました。
慰霊祭中に天気が悪くなる時がありましたが、献花の時も、台湾の最南端・ガランピに着いた時も雨が上がり、無事にお祈りをすることができました。
一昨年、昨年に引き続き、今年もFacebookのライブ機能を使って慰霊祭の様子や参列者が代理献花をしている様子を日本にいる方にもお伝えしました。
慰霊祭に参列して
この慰霊祭は民間が行なっています。スタッフも全員ボランティアです。収益がないので毎年斎行するのは簡単なことではないですが、“戦没者を忘れないために、「二度」死なせないために”という気持ちと皆様の寄付で毎年斎行されているそうです。私もボランティアスタッフとして参列しましたが、他のボランティアスタッフの皆さんもバシー海峡で眠っている方たち、そして遺族の皆様のためにという気持ちだけでボランティアに参加していることが伝わってきました。
また、私たちの世代になると戦争体験者が曽祖父母の世代になってしまい、直接当時の話を聞く機会がほとんどありません。しかし、この慰霊祭を通して、戦争やバシー海峡で起こったことなどを知り、考える機会にもなりました。
私が見た、バシー海峡は穏やかな海で約80年前にここで多くの方が命を落としたことが信じられないほどでした。
「人は二度死ぬ」(一度目は肉体の死、二度目は人々に忘れられてしまうことの死)と言われています。バシー海峡で亡くなった方たちは今も海の底で眠っています。遺族の方は「やっと近くまで来れた」と感慨深い様子でした。
バシー海峡で亡くなられた方たちが安らかに眠れますように。
そして、今も台湾人の皆さんがバシー海峡戦没者を弔っている潮音寺を守ってくださっていること、バシー海峡で多くの人が眠っていることを忘れずに、私も後世へ伝えていきたいなと思いました。
来年のバシー海峡戦没者慰霊祭の詳細は公式ホームページをご覧ください。
↓↓↓公式ホームページ↓↓↓
最後まで読んでいただきありがとうございました。
中国語バージョンでも同じ内容ですが、バシー海峡のことを書いたのでそちらも是非。⬇︎
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パイナップル王の豪邸がリノベカフェに in台北
日本統治時代の葉邸がリノベーションカフェに
高雄にあるパイナップル缶詰工場に行ったとき、スタッフの方に「パイナップル王・葉金塗の家がまだ台北に残っている」と聞いたので行ってきました。
過去にパイナップル缶詰工場について書いたので是非読んでいただけたら嬉しいです。
パイナップル王・葉金塗って?
過去記事と内容が少し被りますが、パイナップル王・葉金塗とはどんな人なのか、最初に説明したいと思います。
葉金塗は、1901年に総督府の提唱により日本人・岡村庄太郎が始めたパイナップル缶詰産業を継承した台湾商人の一人です。パイナップル缶詰産業によって富を得たため、「鳳梨大王(パイナップル王)」と呼ばれていました。
台北大稻埕出身の商人・葉金塗によって1918年に設立された泰芳商会のパイナップル缶詰工場は今も高雄にあります。
立派な外観
1927年に完成された葉邸は、当時の新聞で「本島人(台湾人)の建築技術の一大進歩」と報道されたほどで、とても立派な三階建てです。
さすがパイナップル王!豪邸✨
ちょっと角度を変えて撮った写真を見ると、とても大きくて立派な建物だとわかります。マンションの6階くらいの大きさです。
葉金塗氏の会社「金泰享商行」の「泰」の文字だけではなく、パイナップル王と呼ばれただけあって、ここにもパイナップルが!
内装は…?
中はスターバックスになっています。リノベーションされていて席数も多く、勉強している学生がとても多かったです。他のスタバとは雰囲気にも高級感が増していました。
私が行った時(2021年3月)にはここ、保安門市限定のケーキもありました!
雰囲気がガラリと変わるライトアップ
ここのスタバ、明るいときも存在感がありますが、夜はライトアップされてまた一段と存在感が増した気が…!
インスタ映え間違いなし!
Instagramでも映えスポットの一つになっている、このスターバックス。明るいときと暗いときで雰囲気が変わるのでおススメです✨
席数が多く賑やかなのかと思いきや、とても静かで優雅な時間を過ごせます。
迪化街から歩いて10分ほどで着くので、買い物帰りに寄ってみてもいいかもしれません✨
住所は台北市大同區保安街11號です。
https://goo.gl/maps/PG6CqrFBHtwQJSBm6
私のInstagramにもブログには載せていない写真も載せていますので、よろしければ是非そちらもご覧ください🌱
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最後まで読んでいただきありがとうございました☻
また、おすすめのリノベーションカフェ等がありましたら教えていただけると嬉しいです!
台湾奨学金
台湾奨学金
台湾には給付型の奨学金がいくつかあります。その中で台湾奨学金という台湾政府がだ
している奨学金をもらえたのでもらうまでの過程をシェアしたいと思います。
台湾奨学金についての公式サイトがあるので、リンクも貼っておきます。
(2022学年度版です。)
必要書類
- 奨学金申請表(公式サイトでダウンロードできます。)
- 奨学金承諾書(公式サイトでダウンロードできます。)
- 研究計画書
- 台湾の大学に入学申請した書類(まだ結果がわからない場合は受験したことがわかる書類)
- 高校の卒業証明書 日本語と英語 各1部(各地の弁事処によって認証してもらう必要あり)
- 高校の成績証明書 日本語と英語 各1部(各地の弁事処によって認証してもらう必要あり)
- TOCFLの成績書
- 推薦状 2枚
- パスポートの写し
- 選考結果通知用封筒 三枚(切手と住所を記入)
研究計画書
研究計画書は中国語で約3000字書きました。内容は大学に提出した学習計画書や自伝がベースです。
以下の記事に学習計画書や自伝について書いてありますのでそちらを参考にしてください。↓
推薦書
推薦書は二枚とも語学学校の先生に書いてもらいました。
(先生によって書き方が違ったので定型文などはないと思います。)
奨学金をもらうまでの流れ
12月 研究計画書を書き始める
語学学校の先生に推薦状をお願いする。
1月 高校へ卒業証明書と成績証明書を発行してもらう
1月末 弁事処によって卒業証明書と成績証明書を認証してもらう
2月 奨学金の募集が始まる(3月末締め切り)
2月頭 語学学校の先生に推薦状をもらう、その他必要な書類をそろえる。
3月 東京の弁事処へ郵送
5月 結果発表
この流れで動いたらかなり大変でした。もう少し早めに研究計画書を書き始めることをおすすめします。
最後に
台湾奨学金は一年更新なので、四年間ずっともらえるとは限りません。
成績によっては来年度からはもらえなくなるなどの規定はもちろんあります。
また、私が申請した年はコロナウイルスにより、面接がなく書類審査のみでした。
台湾奨学金を申し込みたい人に私の経験が少しでも役に立てたらいいなと思います。これは私の場合なので、申し込む前に必ず募集要項等で確認してくださいね。
もし、ほかに知りたいことなどありましたら、コメント欄やSNSのダイレクトメッセージで教えていただけたら嬉しいです!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました☻
中国語ゼロからでも台湾の大学へ進学したい!Ⅱ
第二弾
今回は、外国籍の学生が台湾の大学を受験するとき一番重要と言っても過言ではない「自伝」と「学習計画書」について書きました。
どんな感じで書けばいいのか想像しにくいと思うので、私が書いたことを紹介したいと思います。
前回の合格体験記で、合否までの大まかな流れや必要な書類、中国語のテストのことなど、受験に関することを書いたので、もしよろしければ第一弾も読んでいただけると嬉しいです。↓↓
自伝(自傳)
自伝で書いたこと
- 自分の性格
- 今まで経験(高校生活や習い事など)
- 台湾留学を選んだ理由
ざっとこんな感じです。
自伝は自分がどんな人なのかを伝えるものなので、簡単に言うと面接時の自己PRみたいな感じです。
何人かの友人に自伝を見せてもらったのですが、中には様々な受賞歴を書いている人もいたり、力を入れていた校外活動のことを書いている人もいました。内心、私も高校生の時に頑張って何か賞でももらえたらなぁとか思ってしまいましたが、いまさら後悔しても遅いですね(笑)私は今までの経験とその経験で得たことを書きました。
書いて思ったことやアドバイス
本当に書くのが大変でした。私は下書き作成から完成するまで4か月くらいかかりました。なかなか満足のいく文章が書けず、書いたり消したりを繰り返していたので、9割くらい下書きの時間ですが…。
なので、日本語でもいいので、できるだけ早めに下書きを書き始めることをおすすめします。私自身、始めるのが遅かったと少し後悔しています。先ほども書いたように自伝は書き方に正解はなく、自由形式だったので、自分が伝えたいことを最大限に伝えられればいいと思います。
また、一番大切なのは『なぜ、台湾留学なのか』です。正直、どこの国でも留学しようと思えば留学できます。そこで台湾留学を選んだ理由を明確に書いた方がいいと思います。きっと台湾留学を決意し、周りに「なんで台湾留学なの?」と聞かれることが多いと思うので、台湾留学を決めた経緯等含めたら、きっと大学側にも伝わるのではないでしょうか。
学習計画書(學習計劃)
学習計画書で書いたこと
- 動機
- 学習計画
文字通り学習計画を書きました。この書き方も人によって構造が違います。例えば、3段階(入学前・在学中・卒業後)に分ける人もいれば、4段階(入学前・1、2年生・3、4年生・卒業後)に分ける人、6段階(入学前・1年生・2年生・3年生・4年生・卒業後)に分ける人もいます。
私は4段階に分けて書きました。
自伝と違って学習計画書は自分自身の学習計画を書くので、自分が受験する大学で何を学びたいのか、どう過ごしたいのか、等がちゃんと決まっていたら比較的書きやすいかと思います。
書いて思ったことやアドバイス
個人的には、自伝と比べると学習計画書は書きやすかったです。計画書なので、テンプレートは大体みんな同じですし、内容で周りと差をつけることがしやすいと思います。
特に面接のない学部を受験する方は、どうしてこの大学のこの学科を選んだのか、どんな大学生活を送り、どう将来に活かしたいのかを熱く語るチャンスです!
私が歴史学科を受験した時に提出した学習計画書を、台湾人の友達に見せたら、「歴史愛とこの大学じゃないといけないんだって気持ちがすごく伝わる」と言われました(笑)
せっかく行きたい学部の教授に学びたい気持ちを学習計画書を通して伝えられる機会があるのです。この機会を逃すものか!という気持ちで書いていたので、教授にも伝わっていてほしいです(笑)
自伝と学習計画書
この二つを作成した時、私はWordを使いました。提出する時は、字体や段落が変わることを避けるためにPDFにしました。(私の時はオンラインでの提出でした)
受験生はたくさんいるので長々と書くよりは簡潔に書いた方が伝わると思い、できるだけ伝えたいことだけを絞り大体1000字~1500字くらいで書きました。少し文字数が多いような気もしますが、私はまとめるのはこれが限界でした。
合格体験記Ⅱ
振り返ってみると、出願の中で自伝と学習計画書を書くことが一番大変でした。
私は歴史学科以外の学部も受けようと思い、他学部の学習計画書も書きましたが、歴史学科の学習計画書と比べ物にならないくらい内容が薄く、受験すらしませんでした。書き終わって分かったのは、(当たり前ですが、)本当にいきたい学部ではなかったということ。学びたい気持ちがあるかないかは一目瞭然でした。
母国語以外の言語で自分の気持ちを書くことは難しいですし、初めて中国語でこんなに長い文章を書きましたが、書き終わった後の達成感や満足感は言葉になりません!これから受験される方たちにもこの達成感等を味わってもらいたいです(笑)
今回の「自伝と学習計画書の書き方」もこれから台湾の大学進学したいと思っている人たちのお役に立てたら嬉しいです。私がどんな感じで書いたのかを紹介した記事なので、参考程度にしてください。ほかにも私と同じように自伝等にどんなことを書いたのか紹介している方もいらっしゃると思いますし、その方の書き方と私の書き方が違うかもしれません。
わかりにくいところや、聞きたいことなどがありましたら、コメント欄やSNSのダイレクトメッセージで教えていただけたら嬉しいです!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました☻
中国語ゼロからでも台湾の大学へ進学したい!Ⅰ
台湾の大学へ進学!
普段は日本統治時代に関することを書いているのですが、今回から大学進学についても書いていこうと思います。是非ほかの記事ものぞいてみていただけると嬉しいです!
これから台湾の大学へ進学したいと思っている人たちに私の経験が少しでも役に立てたらいいなと思います。
では、今回は過去に質問が来たことをメインに書きます!
大学入学する前は?
私の知る限りでは、大きく分けて2パターンの大学入学の流れがあります。日本で中国語の塾へ通い、高校を卒業した年の9月から台湾の大学に入学するパターンと高校卒業後、現地の語学学校で、ある程度中国語を学び、大学へ進学するパターンです。どちらのパターンにもメリットやデメリットがあると思いますが、私は後者なので、後者のパターンのみ書こうと思います。
合否までのだいたいの流れ
2019年 9月 語学学校入学(教科書一冊目からスタート!)
2019年10月 興味のある大学を見に行ったり、大学の情報収集を始める
2019年11月 TOCFLを受け始める
2020年 8月 志望大学の募集要項が出る&自伝と学習計画書を書き始める
2020年10月 出願必要書類を準備し始める
2020年12月 出願
2020年12月 第一次通知、二次試験(面接)発表
2021年 1月 面接
2021年 2月 合否発表
あくまでもこれは私の合格までの流れです。中には一年間語学学校に通いそれから大学へ進学する人もいます。
ほとんどの大学は3月から5月くらいに外国籍学生を募集します。例えば2020年9月入学をする場合、2020年1月か3月までのTOCFLの成績が必要になります。私は2020年1月のTOCFLの成績がB1だったので、入学後、授業が聞き取れなかったらどうしようという不安があり、二年間語学学校に通いました。
また、二次試験(面接)はある学部とない学部があります。
準備した書類
- 自伝
- 学習計画書
- 高校の卒業証明書(英文)
- 高校の成績証明書(英文)
- 推薦書 二枚
- 財力証明書
- 中国語能力を証明できるテスト(TOCFLなど)の成績証明書
- 証明写真
- パスポートのコピー
- 居留証のコピー(持っている人のみ)
- 出願料を払ったレシート
3~11は2か月前から準備を始めました。
オンライン出願だったので、全てスキャンしました。
自伝と学習計画書
この2つに関しては後日細かく書きたいと思います。
追記:8月31日に更新しました。(すぐ下に貼ってあるリンクから見れます。)
推薦書
推薦書は必要な学部と必要ではない学部がありました。
二人の語学学校の先生に書いてもらう人もいれば、私のように語学学校の先生(中国語)と高校の先生(英語)に書いてもらう人もいました。語学学校の先生は今までたくさん書いてきたからなのか、慣れた感じで快く引き受けてくださいました。
私の受けた大学では、オンラインで推薦書を送ることになっていたので、お願いした先生のメアドを指定の欄に入力し大学側から直接、先生へメールが送られました。なので、今も先生がどんなことを書いてくださったのかわかりません。アンケート形式だったことは教えてくださりました。
財力証明書
日本の銀行(美元)でも台湾の銀行(台湾元)でも大丈夫らしいのですが、私は台湾の銀行で財力証明書を作ってもらいました。即日発行でしかも手数料が10元~20元だったので、日本の銀行より楽な印象を受けました。
大学進学に必要な中国語能力、どのテストを受ければいいの?
各大学、学科によって求められる中国語能力は違いますし、募集要項に必要な中国語能力のレベルは書いてあります。台湾の大学ではTOCFLの成績提示を求められることが多いです。HSK可の大学もあるので、各大学の募集要項を見て確認してください。
ここでTOCFLの申し込みが出来ます。→https://reg.sc-top.org.tw
私はリスニングとリーディングの試験のみ受けました。ちなみに私の出願時のTOCFLの成績はC1です。大学に進学したら、能力試験の成績は当てにならないよと聞いたことがあるので、大学の授業を受けたら、どんな感じなのかも書けたらいいです。
英語の能力は必要?
英語の能力も各大学、学科で異なります。全て英語での授業の学科は英語の能力試験の成績を提示を求められることが多いですが、私の受けた学科は全て英語のカリキュラムの学科ではなく、提出する必要なかったので提出しませんでした。しかし、私の通う大学の場合、大学入学前に英語のテストがあり、英語の能力試験の成績を提出すればクラス分けテストが免除になるそうです。TOEIC(リスニング、リーディング)895点以上・(スピーキング)170点以上・(ライティング)165点以上など条件がありました。ちなみに英検は適用外でした。なので、私的には、あってもなくてもいいけど、あったらいいかもくらいでした。
合格体験記
台湾の大学へ進学したいと思っても、実際何からすればいいのかわからないこともあると思います。これから台湾の大学へ進学したいと思っている人たちに私の経験が少しでも役に立てたらいいなと思います。これは私の場合なので、受験前に必ず募集要項等で確認してください。
もし、ほかに知りたいことなどありましたら、コメント欄やSNSのダイレクトメッセージで教えていただけたら嬉しいです!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました☻
シャロンさんの日本統治時代の思い出②
シャロンさんの日本統治時代の思い出を聞く
今回前回のブログの続きで、YouTubeの後半(10:00くらいから)を書きたいと思います。
前回のブログとYouTubeはこちらになります。
日本統治時代の思い出
お父様との思い出
教育熱心だった、シャロンさんのお父様はたくさんの本や文房具を買ってくれたそうで、よく「宿題はやったのか?」なども聞かれていたそうです。どの時代もお父さんってそうなんでしょうね(笑)私も言われた記憶があります。(笑)
また、シャロンさんにとって忘れられないお父様との夏休みの思い出も教えてくださいました。ある年の夏休み最終日、外に出かけることがなかったシャロンさんたちご兄弟を見て、お父様は『明日から学校なのに子供たちが日焼けしてないのはまずい!』と思い、基隆(台北市より北にある都市)の海水浴場に連れって行ってくれたそうです。日差しが強くすごく暑かったそうですが出たらお父様に怒られる気がして、出たいのを我慢して水の中に入っていたそうです。おかげで真っ赤になり、妹さんは皮がめくれるほど。私が文で書いてもあまり面白くないので、YouTubeの10:00からをぜひ見ていただきたいです(笑)本当に暑かったことが伝わるかと思います。
また、シャロンさんのお父様は日本へ出張しに行くことも多く、蓄音機を買ってきて音楽を流すなど、新しいものを買って来てくれたりしたそうです。
お話を聞いていると、私もシャロンさんのお父様にお会いしたかったです(笑)
近所の友達
シャロンさんが幼少期住んでいたところでは内地(日本)の子供たちが通う小学校に通っている同級生は少なく、みんな本島人(台湾人)が通う公学校へ通っていたので、遊ぶときは日本語より台湾語(中国語とは違う台湾で昔から話されている言葉)を使うことが多かったそうです。小学校は内地の小学校と同じ教育を受けていますが、公学校では公学校一年生(小学校一年生に相応)から日本語を学びます。なので、台湾語でのコミュニケーションの方が円滑だったのかもしれません。ですが、シャロンさんは内地人が通っていた幼稚園に通われていたり、おうちでも日本語を話されていたので、台湾語を使うことが大変だったそうです。
ですが、シャロンさんのお家でみんなで遊んでいたそうで、シャロンさんは今も昔も人気者なんですね!
三時になるとみんなでおやつも食べていたそうです。台湾にも「三時のおやつ」という文化があるのかと思ったのですが、シャロンさんのお母様が本を読んで知ったことらしいです。おやつにはおせんべいやお饅頭などが出たそうです。
シャロンさんのお母様がいつも日本人が多く住んでいる城内におやつを買いに行っていたそうで、ついでに下駄も買ってくることも。
少し話がずれますが、城内とは写真のオレンジで囲んであるところです。日本統治時代前の清国時代に台北城が建てられ、日本統治時代に城壁を取り壊したのですが、台北城の内部(城内)に内地人が多く住んでいました。西門、北門、東門、南門、小南門の5つの城門うち西門以外の4つの城門は残っているので、今も見ることができますよ。
お葬式
台湾の伝統的なお葬式は大きな声を上げて泣くことで故人を慎む、泣き女という職業の人がいます。シャロンさんは昔、この人に会ったことがあるそうで、大きな声で泣いていてとてもびっくりしたと同時に日本のように静寂にお葬式が行われないことに少し恥ずかしく思ったそうです。
建成小学校
休み時間に縄跳びをして遊んでいたり、違うクラスの男友達に気づかれないように頭をポンッとたたくなどのいたずらをしていたりしていたことを懐かしそうに話してくださいました。たまにバレてその人につかまってしまったそうですが、教室に逃げたら相手も追いかけることをやめるので、しらを切って自分の教室に逃げたことも(笑)何十年ぶりに会った時にその人から「先生が「女の子を追いかけるなんて男らしくない」と言われていたから追いかけなかった」と聞いたそうです。
また、日本軍が戦争に勝つと甘いお饅頭が二つ配られるらしく、男の子はこっそり女の子に「余ってるし食べれないでしょ」など聞いて、女の子がまだ答えてないうちに「いらないでしょ」と男の子が取ってしまうこともあったそうです。女の子が泣き出したら先生に怒られてしまうので、そこは慎重にお饅頭を女の子からもらおうとしていたと教えてくださいました。
お話を聞いて
私はシャロンさんのお話を聞くまで戦時中はただただつらい時間だったと思っていました。ですが、シャロンさんはこの動画を撮っている時だけでなく普段お話をしている時も「日本統治時代はよかった、楽しかった」とおっしゃっています。辛いこともたくさんあったとは思いますが、これからも楽しかった日本統治時代の思い出もそうではなかった思い出も聞きたいなと思います。
コロナが落ち着いてまた会ってお話を聞ける日がとても楽しみです。
もし、シャロンさんに聞きたいことがありましたら、ぜひコメント欄に書いていただけると嬉しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。