台湾備忘録

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日本統治時代の小学校と公学校(講師:張文芳さん)

張文芳さんのプロフィール

  • 1929年(昭和4年)桃園生まれ
  • 小学校1年生の時に大阪へ移住するも支那事変勃発のため台湾へ戻る
  • 小学校5年生の時に再び大阪へ
  • 2015年には長年に亘る日台交流の功績により、旭日双光章を受章
  • 美しく正しい日本語を学ぶ会・友愛会の代表を務める

 

 

今回は日本語世代の張文芳さんに日本統治時代の小学校と公学校について教えていただきました!

その様子がYouTubeで公開されています。

よろしければこちらのYouTubeと合わせてご覧ください↓↓

youtu.be

 

小学校と公学校

張さんが豊中市服部にある小学校に入学したのは、昭和11年。しかし、翌年、支那事変が勃発し、台湾に戻り桃園の小学校に転校したそうです。

台湾には小学校と公学校があるので、張さんにその違いを教えていただきました。

 

張さん曰く、公学校は総督府が台湾人の子弟のために設けた学校とのこと。

なぜ公学校を設けたのかというと、台湾人の子供たちは家庭で台湾語などの現地の言葉を話しており、日本語ができないからだそうです。そのような環境の子供達がいきなり日本と同じ教科書などを使い、日本語で勉強することはとても大変でした。そのため、台湾人だけの学校(公学校)を設け、中等教育を受けられるようにしたのです。なので、公学校の教科書は日本語を教える内容だったそうで、元々日本語で生活している日本人には公学校で勉強する必要がありませんでした。

しかし、これを人種差別だと言う意見も出てくるそうです。張さん自身は差別ではなく『区別』だとおっしゃっていました。

 

張さんが通った桃園小学校

桃園は、現在、空港のある桃園市という政令指定都市にあたる大都市ですが、以前は桃園街という小さな町だったそうです。

桃園街にあった桃園小学校は全校生徒数が300人足らずの尋常高等小学校だったそうです。尋常高等というのは、尋常小学校とはまた異なるそうです。

尋常小学校は一年生から六年生までの学校、尋常高等というのは、小学校から中学校へ進学する時に中学校へ行けない学童たちのために設けられた約2年間の高等科のことです。この2年間は英語や代数、幾何学なども教えていたそうです。張さんは当時のことを振り返ると、「台湾では非常に行き届いた教育制度がなされていた」とおっしゃっていました。尋常高等小学校では、小学校や公学校とほとんど変わらず、修身(今の道徳みたいなもの)、作文(当時は「つづり方」と言った)、読書、読み方、書道、算術、商科、体操など幅広く学んだそうです。

また、桃園小学校には作法室があったそうです。そこには玄関、座敷、台所、茶の間等がある部屋で、行儀作法を習ったそうです。特に女の子(女学生)には日本式の家屋で行儀作法を教えていたんだとか。

他にも台湾の学校ではボーイスカウトやガールスカウトの教育もあり、張さんも2年生から5年生までボーイスカウトに参加していたそうです。

80年以上前からボーイスカウトがあったんですね!

 

再び日本へ

昭和15年は紀元2600年という栄えのある年であり、日本中が盛り上がっていました。その年の春、張さん一家は再び日本へ。そして、また服部にある小学校に転校し、小学校の教育を受けたそうです。翌年昭和16年は大東亜戦争が勃発した年でしたが、日本に残り、昭和17年には天理中学校に入学。四年生まで勉強していたそうです。張さんのお姉様も天理高女という高等女学校に入学していたので、姉弟共に学寮に住んでいたそうです。学寮は男女別で今とシステムは変わらなかったそうです。

 

お話を聞いて

日本には小学校しかないので、『公学校』ではどのような授業が行われていたのかとても興味深かったのではないでしょうか。

学問だけでなく、行儀作法も学校で学べたのは面白いなと思いました。

次回は「戦時中のお正月」について書きたいと思います。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました!