80年前の桃園神社
今回は日本語世代の張文芳さんに桃園神社について教えていただきました!
その様子がYouTubeで公開されています。
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桃園神社
この桃園神社というのは日本の当時時代の桃園にあった神社です。
桃園神社は1936年(昭和11年)に創建が決まり、1938年(昭和13年)9月23日に落成、鎮座式が行われました。
落成式
張さんはちょうどその頃小学生で落成式に参加したそうです。桃園神社は張さんが通っていた小学校からほぼ2キロぐらいのところにあり、そこでやぐらを組んで櫓の上から餅まきやお金を紙に包んで一銭を撒いていたそうです。下で大人子供たちが喜んで、張さんも拾っていたそうです。
当時、支那事変が始まっており、毎月一日を興亜奉公日と呼んでいました。興亜はアジアを興す、そして奉公日の奉公、というのは公に尽くすという意味だそうです。興亜奉公日には学校から整列して桃園神社へお参りに行ったそうです。なので1年間に12回神社へ行っていたことに…!今の日本人よりも行っているかもしれませんね。
戦後の桃園神社は・・・?
実は戦後から台湾の神社がすべてなくなります。しかし桃園神社は今もほぼ神社の建物が残っています。桃園神社は終戦後、忠烈祠にしたため残ったそうで。忠烈祠というのは簡単に言えば日本の靖国神社のようなものだです。国のために亡くなった人、殉職した人、戦死した人、そういった人たちを祀っているそうです。
日本統治時代には数百カ所に神社があったそうですが、戦後何年か後に国民党政府が日本の帝国主義の神社は全部は破壊、取り壊し、ということに決めて、神社が軒並みなくなってしまったそうです。桃園神社ももともとその取り壊しの対象にはなっていましたが、地元の人たちが「こんな立派な神社、しかも今忠烈祠変に変わっている」と政府に反対の声をあげたので、今も残されているそうです。こうして台湾で何百とある神社、軒並み壊されている中で、たった残されたのは桃園神社だけだそうです。
今も非常に手入れの行き届いており、台湾でも古跡の中に入れられています。
お話を聞いて
桃園神社は今では観光スポットになるほどの有名な場所でしたが、地元の皆さんが声をあげたおかげで今も残っているんですね。
桃園神社の落成式に張さんも参加され、お餅以外にお金も撒いたと聞いた時には驚きでした。
日本語が話せるガイドさんが桃園神社にはいますので、ぜひ皆さん行ってみてください!
次回は「模型飛行機」について書きたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
戦時中のお正月
今回は日本語世代の張文芳さんに戦時中のお正月ついて教えていただきました!
その様子がYouTubeで公開されています。
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当時のお正月とは
日本統治時代、台湾では2回お正月がありました。私たちに馴染みのある新正月と旧暦1月1日から始まる旧正月です。
子供の頃、張さんのお正月の楽しみはお年玉が貰えることだったそうです。
「勉強」
ここでお年玉とは少し話がずれますが張さんから「勉強」という言葉について豆知識を教えていただきました。
私たちは「勉強」という言葉を”学校で学習する、家で学習する”と思いがちですが、「勉強」という事は学習と本来は別のものだそうです。
「子供は遊び盛り食べ盛りで、そんな堅苦しい生活なんかするよりも、勉強なんかするよりも家で遊んでいる方が楽しい。勉強が日本では学習という言葉に変わっている。」と教えていただきました。
また、張さんは大阪に住んでいたので、大阪弁での「勉強」も教えていただきました。
大阪弁で「勉強」は安くしなさいということだそうです。面白いですよね。
お正月=連休
張さんが「勉強」のお話で教えてくださったように子供たちは子供は遊び盛り食べ盛りなので、お正月は連休になるのでとても楽しかったそうです。
新正月では、日本人の子供たちはごちそうを食べ、お餅を焼き、お正月を満喫します。しかし、台湾の子供たちは勉強をしないということがなによりも楽しかったそうです。
お年玉
台湾の子供たちは旧正月にお年玉をもらったそうです。
当時の子供たちのお年玉はどのくらいもらったのでしょうか。
なんと1円だそうです。
もちろん今の1円ではなく、当時の1円です。当時の1円はとても高価でした。
当時の最低金額は”銭”。1円=100銭になります。 今は為替レートなどでしか”銭”という単位は見ないので、あまりぱっとしないと思いますが、当時1銭でもいろんなものが買えたそうです。例えば、ぜんざい一杯と油條半分、アイスキャンディー一杯、アーモンドティー一杯など。1円あればなんでも買えたんですね!
また、当時の学校の先生の月給は30円くらいだったそうなので、1円がどんなに大金だったかがわかると思います。
しかし旧正月には台湾の家庭でもごちそうが並び、すぐに使い切ることがなかったそうです。
お話を聞いて
お年玉事情は皆さん気になる内容であったのではないでしょうか。
当時1円がこんなにも大金だったとは驚きました。1銭でおやつが買えたのは面白かったです。
次回は「80年前の桃園神社」について教えてもらったので、それを書きたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
日本統治時代の小学校と公学校(講師:張文芳さん)
張文芳さんのプロフィール
- 1929年(昭和4年)桃園生まれ
- 小学校1年生の時に大阪へ移住するも支那事変勃発のため台湾へ戻る
- 小学校5年生の時に再び大阪へ
- 2015年には長年に亘る日台交流の功績により、旭日双光章を受章
- 美しく正しい日本語を学ぶ会・友愛会の代表を務める
今回は日本語世代の張文芳さんに日本統治時代の小学校と公学校について教えていただきました!
その様子がYouTubeで公開されています。
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小学校と公学校
張さんが豊中市服部にある小学校に入学したのは、昭和11年。しかし、翌年、支那事変が勃発し、台湾に戻り桃園の小学校に転校したそうです。
台湾には小学校と公学校があるので、張さんにその違いを教えていただきました。
張さん曰く、公学校は総督府が台湾人の子弟のために設けた学校とのこと。
なぜ公学校を設けたのかというと、台湾人の子供たちは家庭で台湾語などの現地の言葉を話しており、日本語ができないからだそうです。そのような環境の子供達がいきなり日本と同じ教科書などを使い、日本語で勉強することはとても大変でした。そのため、台湾人だけの学校(公学校)を設け、中等教育を受けられるようにしたのです。なので、公学校の教科書は日本語を教える内容だったそうで、元々日本語で生活している日本人には公学校で勉強する必要がありませんでした。
しかし、これを人種差別だと言う意見も出てくるそうです。張さん自身は差別ではなく『区別』だとおっしゃっていました。
張さんが通った桃園小学校
桃園は、現在、空港のある桃園市という政令指定都市にあたる大都市ですが、以前は桃園街という小さな町だったそうです。
桃園街にあった桃園小学校は全校生徒数が300人足らずの尋常高等小学校だったそうです。尋常高等というのは、尋常小学校とはまた異なるそうです。
尋常小学校は一年生から六年生までの学校、尋常高等というのは、小学校から中学校へ進学する時に中学校へ行けない学童たちのために設けられた約2年間の高等科のことです。この2年間は英語や代数、幾何学なども教えていたそうです。張さんは当時のことを振り返ると、「台湾では非常に行き届いた教育制度がなされていた」とおっしゃっていました。尋常高等小学校では、小学校や公学校とほとんど変わらず、修身(今の道徳みたいなもの)、作文(当時は「つづり方」と言った)、読書、読み方、書道、算術、商科、体操など幅広く学んだそうです。
また、桃園小学校には作法室があったそうです。そこには玄関、座敷、台所、茶の間等がある部屋で、行儀作法を習ったそうです。特に女の子(女学生)には日本式の家屋で行儀作法を教えていたんだとか。
他にも台湾の学校ではボーイスカウトやガールスカウトの教育もあり、張さんも2年生から5年生までボーイスカウトに参加していたそうです。
80年以上前からボーイスカウトがあったんですね!
再び日本へ
昭和15年は紀元2600年という栄えのある年であり、日本中が盛り上がっていました。その年の春、張さん一家は再び日本へ。そして、また服部にある小学校に転校し、小学校の教育を受けたそうです。翌年昭和16年は大東亜戦争が勃発した年でしたが、日本に残り、昭和17年には天理中学校に入学。四年生まで勉強していたそうです。張さんのお姉様も天理高女という高等女学校に入学していたので、姉弟共に学寮に住んでいたそうです。学寮は男女別で今とシステムは変わらなかったそうです。
お話を聞いて
日本には小学校しかないので、『公学校』ではどのような授業が行われていたのかとても興味深かったのではないでしょうか。
学問だけでなく、行儀作法も学校で学べたのは面白いなと思いました。
次回は「戦時中のお正月」について書きたいと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございました!
日本語世代・シャロンさんに聞く日本統治時代と戦後のはなし
第一回 シャロンさんを囲む会を開催!
6月16日台湾時間14:30からシャロンさん囲む会を開催しました。今回は静かなカフェで私の知り合い3人と一緒に昭和4年生まれの日本語世代・シャロンさんに日本統治時代や戦後の台湾についてお話を聞きました。
また、YouTube LIVEも同時に行いました。
こちらがその時のYouTube LIVEです。ぜひご覧ください!
3時間のロング講演
私のブログやInstagramでよく紹介しているシャロンさん。
シャロンさんファンはご存じかと思いますが、シャロンさんはとってもおしゃべりな方なので、今回も3時間にわたってお話ししてくださいました✨
今回のテーマは「日本統治時代と戦後のお話」だったため、様々なお話をしてくださいました。
- 日本統治時代に通っていた建成小学校の思い出
- 台北第三高等女学校のお話
- 戦時中の生活の話
- お父様やご家族との思い出
- 終戦の日のこと
- 戦後の生活
- 二二八事件のこと
などむしろ3時間では短いくらい内容の濃いお話ばかりでした。
やっぱりシャロンさんはすごい
私たちも聞き入ってしまい気が付けば3時間経っていたので、最後の方は少し焦りながら終了してしまい、シャロンさんに「3時間もお話ししてくださりお疲れですよね?💦」と聞いたところ、「大丈夫よ~!私はまだまだ話せるのよ。」と(笑)
さすがシャロンさんですよね。もうすぐ94歳になるとは信じられないほどの体力です。
囲む会終了後に誕生日プレゼントを渡しました
先日シャロンさんと電話でお話しし、今回の囲む会を依頼した時に、シャロンさんから「6月は私の誕生日よ。6月18日。祝ってほしいとかじゃなくてね。私の誕生日は6月なんですよ。」と教えていただいたのでこれは絶対祝わなければ!と思い、プレゼントをお渡ししました。
シャロンさんにお会いするたびに「あなた、いつ私の本を出すの?」と言われていたので、今回自作本を作って誕生日プレゼントに。
シャロンさんのことを書いた世界に一つだけの本です。
お渡ししたらとても喜んでくださって、作ってよかったなと思いました。
いつか、ちゃんと本を書いてお渡しできるようにこれからもシャロンさんからたくさん教えてもらおうと思います。
元気いっぱいなシャロンさんとお会いして私が元気をもらいました。
また、このような機会を開きたいと思います。
ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
中国語ゼロからでも台湾の大学へ進学したい!Ⅲ 面接編
第三弾
三回に分けて書いてきた「台湾の大学進学について」、今回が最後になります。
今回は面接についてです。
受験の大まかなことや自伝・学習計画の書き方を知りたい方は第一弾と第二弾をご覧ください。
また、面接の有無は大学・学部によって異なるので、志望校の受験要項等で確認してください。
私が受けた2つの学部は面接があったので、私が面接時に聞かれたことをシェアしたいと思います。
面接を受ける方のお役に立てれば嬉しいです。
面接で聞かれたこと
A学部
面接日の5日前くらいにメールで面接の詳細が送られてきました。
面接会場についた後、すぐに本人確認をし、名札を持って写真を撮られました。待機場所が廊下だったのでとても寒かったです(笑)
前の受験生の面接が終わって2、3分後に名前を呼ばれ、面接会場へ入室しました。
約10分間の面接で、最初の2分間は自己PR、残りの8分間は質疑応答でした。
2分経った時、8分経ったとき、10分経った時でチャイムが鳴るので自己PRが2分ぴったりでないと無言の時間が流れたり、伝えきれなかったりするので、前日までひたすら2分ぴったりで言えるように練習しました。
8分間の質疑応答で聞かれたことはこんな感じです。
- 中国語の学習歴
- なぜ台湾の大学なのか
- この学科は読む量が多いが大丈夫か
- 授業が聞き取れなかった場合どう対処するか
- 学習計画書で書いたことに関する質問
教授は前に3人いて後ろに1人いました。私が座ったテーブルの上にはボイスレコーダーとマイクが置かれていました。(↓このような感じです。)
マイクを使わなくても聞こえる距離だったので、面接官の教授からはマイクを使っても使わなくてもどちらでもいいと指示を受けました。
B学部
この学部は事前に詳細メールは送られてきませんでした。
B学部でも本人確認がありました。順番が来たら名前が呼ばれるので面接会場の教室へ入室します。
時間制限もありませんでしたが、だいたい10分~15分の面接だったかと思います。
面接会場では、まず名前と受験番号の確認をし、自己PRをした後、後ろのプロジェクターに映された文章を見るように指示がありました。
そこには15行くらいのその学科に関係のある文章があり、声に出して読むように言われ、読み終わった後に前に向くように指示がありました。
そして、「この文章の内容が理解できたか」と聞かれ、どんな内容だったか要約するように言われました。
その後A学部と同様に質疑応答がありました。聞かれた内容は以下です。
- 中国語の学習歴
- この学部でどんなことを学んでどう将来に生かしたいのか。
- 授業の内容がわからない場合どう対処するのか。
- 日本の大学でも学べる学部なのになぜ台湾の大学で学ぶのか。
- 学習計画書の内容に関する質問
教授は前に2人いて、プロジェクターを使っているため、部屋は少し薄暗かったです。
↓このような感じでした。
服装
服装に指定はありませんでしたが、スーツで受けました。
周りの受験生もスーツや襟のあるシャツ等きれい目な服装でした。
また、面接会場で見た人たちの髪の色も黒か濃い茶色でしたし、ネイルやアクセサリーをつけている人はいませんでした。
合格体験記Ⅲ
大学によって規模が違いますが、面接日前に一度面接会場までいくことをおすすめします。
また、私は念のために受験票のほかにパスポートやARCなどを持っていきました。
周りに面接を受けた人がいないので、他学部や同学部の人がどんなことを聞かれたのかはわかりませんが、私の経験が役に立てたら嬉しいです。
これで、大学進学についての記事は一区切りになりますが、これからも大学生活についてシェアしていきたいと思います。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
不為人知的台灣最南端・巴士海峽的悲劇—為了不讓戰亡者去「死第二次」了—
巴士海峽戰亡者之悼祭儀式
11月20日我參加位於台灣南端潮音寺主辦的第八次巴士海峽戰亡者之悼祭儀式。
日本語でも書きました。日本語バージョンをお読みになりたい方はこちらをご覧ください。
運輸船墓地・巴士海峽與潮音寺
巴士海峽是位於台灣和菲律賓之間的海峽,戰爭期間日本的運輸船遭到美軍潛艇的攻擊而沈沒,因此這海峽被稱為「運輸船的墓地」。據說在巴士海峽的戰亡者有10萬人以上,20萬人以上,但實際上到現在還不知道有多少人在這裡戰死。而且現在也有很多犧牲者在巴士海峽長眠。
當時在巴士海峽行駛的「玉津丸」也受到美國艦的攻擊而沈沒了。乘坐玉津丸的中嶋先生在巴士海峽漂流了12天,之後奇蹟般地獲救。中嶋先生想為在這個海峽戰死的戰友們悼念,戰後中嶋先生為他們建造的寺廟,就是「潮音寺」。從潮音寺的御堂可以看到巴士海峽。
中嶋先生於2013年以92歲高齡去世,現在台灣人的鐘小姐繼承了中嶋先生的遺志,保護著潮音寺。鐘小姐說:「我們會維持管理潮音寺,在日本的大家不要擔心。」
而且,當地的人們為了讓我們方便去潮音寺而修建了道路,中元節(日本的お盆)供奉著回到現世的戰亡者靈魂。
多虧了鐘小姐等很多台灣人,現在潮音寺也能保持乾淨、管理。
今年儀式的樣子
今年來自日本的人、台灣人、在台日本人共計63人參加了在潮音寺舉行了巴士海峽戰亡者之悼祭儀式。
移動從潮音寺到附近的海岸和最近巴士海峽的台灣最南端的鵝鑾鼻的時候,天氣變差了。但獻花的時候和到達台灣最南端的鵝鑾鼻的時候,雨都停了,會順利地祈禱了。
另外,今年也儀式的情況和參加者代理獻花的情況使用Facebook的直播功能向在日本的人傳達了。
參加儀式
這個儀式是民間團體舉行的。工作人員都是志願者。因為沒有收益,所以每年舉辦並不是一件簡單的事情,但是大家的「為了不讓戰歿者去『死第二次』了」的心情和捐款,從2015年開始每年都會舉辦。我也作為志願工作人員參加了此儀式。其他的工作人員也只是為了在巴士海峽戰死的人們以及遺族的人們,這樣的心情參加志工。
對我們這一代來說,戰爭體驗者就變成了曾祖父母那一代,幾乎沒有機會直接聽到當時的故事。但是,通過這樣的儀式,能知道戰爭和巴士海峽發生的事情,也成為了再一次思考的機會。
我看到的巴士海峽是一片平靜的大海,大約80年前這裡有很多人喪命,令人難以置信。
據說「人會死兩次」:第一次是肉體的死亡,第二次是被人們遺忘的死亡。在巴士海峽死亡的人們現在還在海底。有一位遺族感慨萬千地告訴我「終於來到了這裡」。
我希望在巴士海峽戰死的人們能安息。而且,我們不要忘記現在台灣人也守護著弔唁巴士海峽戰亡者的潮音寺、在巴士海峽沈睡著很多人。我也想傳達給後世。
明年巴士海峽戰亡者之悼祭儀式的詳細情況請看官方網站。
↓↓↓官方網站↓↓↓
謝謝看到這裡☺︎
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